

- 船越義珍先生
- 船越義豪先生
- 船越義英先生
- 江上 茂先生
- 廣西元信先生
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1. 船越義珍先生〔1868年〜1957年〕
現在「空手」は日本だけでなく、広く世界に普及し親しまれている武術である。しかし、空手は長らく沖縄に於いて秘術「手(ティ)」後の「唐手(トウーディ)」として、個人的に師から弟子に伝えられていたものであった。
義珍先生先生は安里安恒・糸洲安恒の両先生から長らく指導を受けられた。又、沖縄尚武会(武道協会)の代表を務めるなど「唐手」普及活動に尽力した。
日本本土では海軍の八代艦隊が沖縄に寄港し際に、選抜された水兵が義珍先生に一週間指導を受けたが、その威力が危険視され海軍は採用を見送った。
1921年3月、昭和天皇がまだ皇太子であられたとき、渡欧の途次沖縄に立寄られた。この時、義珍先生は演武の指揮者として、師範や中学の生徒を選抜し、首里城正殿の大広間に於いて「唐手」演武の指揮を執りを台覧に供した。
皇太子殿下は「唐手の霊妙なること」と言う感想を述べられている。
1922年5月、東京に於いて文部省主催の第一回古武道体育展覧会に沖縄県学務課の要請で出席し沖縄秘術「唐手」を紹介した。日本本土での初公開であった。
義珍先生は「唐手の型」の演武、及び、その他を図解した條幅三幅を作成出展し説明の任に当たった。
展覧会終了後、義珍先生は講道館・法曹界・中等学校・体育研究会・ポプラ倶楽部・その他からの懇望を聞き入れて、各所で「唐手」の講演あるいは実演を行った。
結局、沖縄に帰郷することなく東京に在住し、各大学・警視庁にも指導に赴き「唐手研究会」と言う名称のもとに、その普及を図った。
1924年に鎌倉円覚寺慧訓管長の指導もあり従来沖縄で「手(て)」又は「唐手(とうで)」と呼ばれていた「唐手(からて)」の文字を「空手」に改名し、かつ「空手術」を「空手道」に変更した。「空」には「徒手空拳にして身を守り敵を防ぐ」武道の心を象徴すると共に、般若心経の思想をも含むものである。
この時点で、沖縄秘術「唐手術」は精神修養の道にまで高揚されたのである。
義珍先生は空手を学ぶ者の心得、空手道修行者の人生訓として「空手道二十訓」を示している。
1936年に義珍先生は空手道を研究する人達の連絡・融和・緊密を深めることを目的に設立した「大日本空手道研究会」を「大日本空手道松濤會」に改称した。
「松濤」は義珍先生の雅号である。
1939年念願の空手道専門道場「大日本空手道松濤館」を船越義豪先生等主要門人達の協力を得て、目白・雑司ヶ谷に創建した。
「松濤館」は大日本空手道松濤會本部道場として、技術面の中心的役割を果たし、現在普遍的に行われている、基本・型・組手の日常稽古体系を確立した。
又、大極の型、組手「天之型」、棍の型「松風」を考案した。
1957年逝去されるまで、日本空手道松濤會会長として「空手道」の普及発展に尽力した。
義珍先生は名実ともに「近代空手道の父」と言われる所以である。
2. 船越義豪先生〔1906年〜1945年〕
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| 船越義豪先生 |
船越義珍先生の三男・義豪先生は17歳のおり父を頼って沖縄より上京した。文部省の体育医事相談所のレントゲン技師を勤めていた。
各大学の空手部の師範代を努めていた下田武先生亡き後、師範代となり各大学の空手部の指導に当たった。
技術的には義珍先生の空手術を忠実に体得した上で、さらなる技の工夫発展に心血を注いだ。
大極の型、組手「天の型」、棍の型「松風」の考案に当たっては中心的役割を果たすなど、松濤會空手道の技術体系の整備・確立に多大の貢献をされた。
大日本空手道松濤館建設では主体的役割を果たした。
3. 船越義英先生〔1900年〜1961年〕
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| 船越義英先生 |
船越義珍先生の長男・義英先生は、義豪先生が早逝され、又、父・義珍先生も永眠された後、先生方の遺訓をを無視する形で、空手が競技化されたり「スポーツカラテ」への道を進む現況を嘆き、義珍先生の長男として、日本空手道松濤會第二代会長を務め、道統を継ぐべく努力された。
技術の中心として、又錬磨の場としての空手道場「松濤館」再建の必要性を説かれたが、志半ばでこの世を去られたが、松濤館再建の礎を築かれた。
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